James L. D'Aquisto ジェームス L. ダキストの生涯TU VWX YZ

ジェイムズ・L・ダキストは1935年11月9日、ニューヨークのブルックリンでその生を受けた。
祖父はイタリアのシシリー島・パレルモから1910年にアメリカへ来た移民。そしてブルックリン生まれの父・ヴィンセントと母・マリアが結婚したのは1933年のことであった。その長男として育ったジェイムズは、鋳型職人の父の血を継いだためか、幼い頃から手先の器用な子として家族の記憶に留められている。
オペラ好きの父を通し、いつも歌や楽器の音が絶えない家庭環境で育ったジェイムズは、自然と音楽に親しむようになり、少年になると当時流行していたジャズに心酔。何回かトランペットのレッスンを受けたこともあるが、まもなくギターサウンドのコード感が気に入って、正式にレッスンを受けるようになった。
学校の勉強は彼にとって退屈なものだったようで、16才のときには証券情報誌の配達員の仕事につき、ウォール街をいそがしく駆け回る日々を送っていた。この時期、夜はギタリストとしてステージに立つこともしばしばであったという。なお、配達員の仕事は9ヶ月しか続かず、次に就いたデパート(ロード&テイラー)の倉庫業務をしていた17才のとき、ダキストにとって唯一無二の師となるディ・アンジェリコとの出会いが訪れるのである。
ミュージシャン仲間の所有するディ・アンジェリコ・ギターの見事さににすっかり感激したダキストは、その友人の紹介でマンハッタンの工房を訪問。はじめて対面したディ・アンジェリコから「弾いてみるかい?」と手渡された18インチのニューヨーカーモデルをプレイしたダキストは、まるでピアノのように整ったサウンドにすっかり熱狂してしまったのである。
以来、昼はデパートの仕事、それが終わるとディ・アンジェリコの工房に入りびたっていたダキストは、生来の器用さや好奇心も手伝い、ついにはディ・アンジェリコの徒弟として仕事をはじめるようになった。もちろん、ディ・アンジェリコにとっても、自分と同じイタリア系の少年に親しみを感じて仲間に加えたことは言うまでもない。
また、鋳型職人の父はディ・アンジェリコのために工具の提供を行うなど、家族ぐるみの支援もあったという。工房を通じて知り合った一流ミュージシャンとの交流を楽しそうに家族に語ることも多く、ディ・アンジェリコの工房における生活が、彼にとっていかに幸福なものであったかを裏付けるエピソードといえるだろう。
ダキストはのちに回想している。
「もしディ・アンジェリコが元気であり続けていたなら、ぼくはその弟子として、疑うことなく彼のもとで死ぬまで働いていただろう」。
それは決して、師への服従といったものではなく、崇拝、畏敬、感謝といったすべてが込められた独特の感情に他ならない。

ディ・アンジェリコの工房には他にも職人がいたが、ダキストは技術の習得にともない重要な作業を任されるようになっていった。ただ、残念なことに収入は恵まれたものではなかったらしく、ダキストは工房で働きながらも、家族のために夜はミュージシャンとしての仕事を続けていた。
なおダキストは1959年5月、23歳のときにフィリーズ・フェッザと結婚し、生涯に5人の娘(ポーラ、リザ、パメラ、ジェイミー)と1人の息子(マイケル)をもうけている。
転機は突然に訪れた。
ディ・アンジェリコは1964年9月1日、心臓発作のため59歳でこの世を去った。ダキスト28歳のときである。
この頃のダキストを取り巻く環境は「不幸」としか言いようがない。
師の遺族はダキストに対し3000ドルでディ・アンジェリコの工房とブランドを引き継ぐ事を提案。ダキストはこれに積極的に応えるべく金策を行ったが、彼いわく「ぼくはあまりにも無知だった。相談した会計の専門家にだまされたんだ」と回想するように、結局は失敗してしまうのである。
別の見方をすれば、この失意こそが後のオリジナリティ豊かなダキスト作品を生み出すきっかけとなったとも言えるだろう。
そしてまたこの時期は多忙でもあった。昼はニューヨーク・ケンメア・ストリート37の工房で残された修理などの仕事、夜は家族を支えるために続けていたミュージシャンとしての仕事。
失意と貧窮が続く1965年末、夜間に盗難にあうという不幸がまた彼を襲った。
なお、「D’Aquisto」の名を冠したギターは、この1965年にはじめて製作されている。
心機一転。ロングアイランドのハーティントンに工房を構えたダキストは、ようやく本格的に自身のギター製作にとりかかる。それは当初、ディ・アンジェリコの系譜といえる「ニューヨーカー」モデルが中心であった。当初は貧窮が続いていたが、ディ・アンジェリコの真の継承者としてのダキスト作品は、着実に世間の評価を高めてゆき、1967年ごろには満足なオーダーが入るようになったという。
それは、ジャズの退潮とロック・ミュージックの興隆、同時にアーチトップギター専門の製作家が減少するという苦しい時勢において、確かな経験と技能を通して獲得した評価であることを忘れてはならない。
1973年、同じロングアイランドのファーミングデールに工房を移転、さらに4年後にはグリーンポートに移転した。グリーンポートこそダキストにとってようやくたどりついた安住の地であり、ここから数多くの充実した作品が次々と生み出されていったのである。たとえば、これまでのニューヨーカーモデルのほか、ジム・ホールが愛用した「ジャズライン」など、師の影響とダキスト自身のオリジナリティが融合された作品が数多く生まれている。具体的には、サウンドのために過度な装飾やメタルパーツの使用を避ける、といった試みである。

作品への評価が高まり、生活が安定し、演奏家や資産家たちのオーダーに対して豊かなアイディアで応えることができるようになったのは1980年代中盤からであろう。
次第にダキストの作品は演奏家にとどまらず、コレクターの注目をも集めるようになっていった。コレクターとして有名であったスコット・チナリーは、はじめて「ソロ」を弾いた瞬間を「電気が走るような衝撃」と表現し、その後ダキストにさまざまなギターをオーダーをしている。
自らの名を冠したブランド弦の販売や、監修者として関わったダキスト名義のマスプロダクション・モデルなども始まり、彼のギター造りに対する研鑽の人生は、ここにきてようやく花を咲かせたのである。80年代末以降になると、もはやオーダー品を仕上げるだけの製作家から完全に脱却し、自身のオリジナリティに満ちた作品を世に提供する、クリエイティブなルシアーへと転化したのである。
しかし幸福な時間は長く続かなかった。最後の不幸が彼に忍び寄っていたのである。
1995年4月18日、監修していたフェンダー製「ダキスト」の検品作業をカリフォルニア・コロナの工場で行っていたが、途中、体調不良を訴えホテルの部屋に戻ったダキストは次の朝、ベッドの上で帰らぬ人となってしまったのである。奇しくも、敬愛する師、ディ・アンジェリコと同じ、享年59歳であった。
もともと、家系的にてんかんの疾病をもっていたダキストは、ときに発症しながらも、来訪者にはつとめて明るく応対していたと伝えられている。
「ぼくは楽天的だから」といって人前で元気にふるまう反面、迫りくる死の予感が精力的な活動へと彼を駆り立てていたのであろう。
ダキストはその生涯において、アーチトップギターを中心とする約1400本のギターを自身の手で製作しており、それらの楽器は彼の死後もなお輝きを放ち続けている。
参考文献
「Acquired of the Angels ? The Lives and Works of Master Guitar Makers ?John D’Angelico and James L. D’Daquisto」 Paul William Schmidt, Scarecrow Press,Inc. 1998.
「ギター・グラフィック第4号:Memorial Works of James L.D’Aquisto」 リットミュージック, 1995.
「ジャズライフ2004年5月号:孤高のルシアー、ジェイムズL・ダキストが創った楽器」三栄書房, 2004.
Movie: 「The New Yorker Special」Frederick Cohen, The New York Public Library(16mm film), 1986. |